寒川町 文化財学習センター

寒川町文化財学習センターは、一之宮小学校の一角にあり、寒川町の埋蔵文化財民俗文化財を展示しています。

ここでは「文化財学習センターへの道」と「文化財学習センターの展示物」をご紹介します。

文化財学習センターへの道

寒川駅南口から徒歩で約12分です。

途中、車地蔵や梶原景時館跡があります。

ダウンロード
寒川駅から寒川町文化財学習センターへ
寒川駅から文化財学習センターへの道順を印刷形式でご覧いただけます。
途中、車地蔵や梶原景時館址(現 天満宮)があります。
150221寒川町文化財学習センター.pdf
PDFファイル 750.5 KB

←寒川駅南口を出たら西側(相模川方向)へ進みます。

←最初のT字路を左折します。

←県道47号を渡り、直進します。

←次の信号(南泉寺北)を右折します。

←しばらく直進します。

←花川用水を渡るとすぐT字路が二つ続いて現われます。

左折して、すぐ右折です。

←この道を直進すると...

←右手に車地蔵が見えてきます。

毎月24日が開帳の日で、車地蔵を拝顔することができます。

←車地蔵を過ぎてすぐの交差点を左折します。

(この交差点の近くに野菜の直売所があります)

←少し広い道を横断し、直進します。

車が多く通ります。

横断に注意してください。

←すると県道45号(大山街道)へ出ます。

大山街道を挟んで、正面が梶原景時館跡です。

梶原景時館跡へ寄る場合は、横断歩道を渡りましょう。

←右手の横断歩道を渡り、県道45号に沿って相模川方向へ歩くと...

←文化財学習センター(一之宮小学校)が左手に見えてきます。

 


文化財学習センターの展示物

1階に埋蔵文化財、2階に民俗文化財が展示されています。

展示されている埋蔵文化財

埋蔵文化財は、文化財学習センターへ入るとすぐ、正面に展示されています。その一部をご紹介します。

縄文時代


旧石器時代に続く時代で、日本で本格的な農耕が始まる2,300年前頃までの、1万年以上にわたって続いた時代です。この時代は、土器の製作、使用をもって開始するとも言われており、これら土器の表面に縄目の模様が付けられたことから、「縄文時代」の名が付けられました。土器の模様や形は、時間とともに変化しますが、この違いによって、縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6時期に分けられています。

この時代には地球規模で温暖化が進んだため、極地付近の氷が溶け、それまで陸地であったところにも海水が進出しました(縄文海進)。海進は前期の7,300年前頃にピークに達し、一部の高台を残して、町域の大半は海水域となったようです。その後、再び地球は涼しくなっていき、中期の5,000年前頃には現在とほぼ同じ気候に落ち着いたといいます。これに伴い、海水も次第に退(ひ)いていきます{海退(かいたい)}。

縄文時代の生活


このころの生活は、狩りや魚取り、木の実の採取を基本とするものでした。狩りや魚取りに使う道具にも工夫が凝らされ、旧石器時代よりも効率よく食料の獲得がおこなわれたと考えられます。しかし最大の違いは、土器を製作、使用するようになったことでしょう。土器の出現によって、食料を煮炊きして調理することが可能となり、それまでの食生活は大きく変化したといわれています。

この時代には、人々が一定の場所で住み続ける生活が始まったといわれますが、その背景には、山(森)、川、海といった、豊かな自然(食料資源)と、これを上手に利用した人々の知恵と工夫があったのです。人々はこうした環境のもとでバラエティに富んだ土器を作り、自然を尊んでお祭りをしていたのだと考えられます。

←岡田遺跡出土遺物。

(縄文時代中期 約4,500年前)

石皿と磨石(縄文時代中期 約4,500年前)

木の実などをすりつぶして粉にするのに用いられました。

土錘・石錘(縄文時代中期 約4,500年前)

魚をとる網や、ゴザなどを編むときのおもり。

←写真上左

顔面把手(縄文時代中期)

深鉢などについていた把手で、顔を模したように見えるもの


写真上右

玉製品(縄文時代中期)


写真 下左

土偶

人物や動物をかたどった土製品。安産や子供の成長を願って作られたとする説、けがや病気をはらう意味が込められたとする説などがあります。


写真 下右

ミニチュア土器

土器をかたどった土製品。玩具や呪術的ものとして考えられています。

深鉢(縄文時代中期 約4,500年前)

縄文時代中期の釣手土器

寒川町指定重要文化財第20号

取手部に紐を通してつるし、灯火や香炉に使ったと考えられます。

←地形の変化図。


今から約6,000年前ころの縄文時代前期、地球は今よりずっと暖かかったといわれています。このことは、南極などの氷や氷河がとけることで海水面の上昇、つまり海水の内陸への侵入という結果となってあらわれます(縄文海進)。こののち、少しずつ涼しくなり、およそ5,000年前ころに現在と同じ気候になったと考えられています。その結果、海水も次第に退いていきます(海退)。

右側の図は、海水が最も内陸に入ってきたときの様子をえがいたものです。寒川駅などの位置からも分かるように、町の西側と南側の大部分が海であった様子がうかがえます。

この時代の遺跡としては、大蔵東原遺跡で竪穴式住居址4軒が見つかっています。ただ、この住居址は前期でも終りごろのものなので、実際には海水がすこしずつ後退し、周囲が陸地化しつつあるときにつくられたものと考えることができます。

中央の図は、縄文時代の中ころの寒川周辺の地形をあらわしたもので、海岸線はかなり後退している様子が分かります。その後、河川の上流から運ばれた土砂が堆積することによって、平らな土地が広がっていき、左の図のように現在の地形へと移り変わっていきます。

←寒川の遺跡分布図。


平成21年(2009)現在、寒川町の遺跡は79ケ所を数えています。地図をみると、寒川駅より北東側の地区に多く分布している様子が分かります。この地区は比較的高台となっていて、水はけが良く、地盤も安定している所です。一方、遺跡が少ない西部から南部にかけては沖積低地といって、相模川などの河川が運んできた土砂が、長い時間をかけて堆積してできた土地となっています。このため、古い時代ほど洪水の被害を受けやすく、ぬかるみも多かったとみられ、住むにはあまり適さない土地であったと考えられています。大規模な開発ができなかった縄文時代や弥生時代の人々は、水害を受けにくい高台に住み、水汲みや魚取りやコメ作りなど必要に応じて川や低地に降りていったと考えられます。その結果が、図のような遺跡の分布として表れているといえるでしょう。

その後、古墳時代になると、有力者の指導のもとに低地の開発が進み、人々の住居・活動の範囲は大きく広がったと考えられています。寒川では古墳時代の遺跡は多くありませんが、もしかしたら低地のどこかに未発見のムラや水田の跡が眠っているかもしれません。

平安時代になると。寒川神社は朝廷より相模国では最も格の高い「一宮」の位を授かりました。このことから、この頃には神社周辺の低地開発も進み、神社の経済的基盤となるだけの水田や集落が、一之宮地区の周辺に広がっていたと考えることができます。

展示されている民俗文化財

民俗文化展示室は2階です。

←2階へ昇る階段は、事務室兼整理室の前、右手にあります。

←階段を昇ると、右手が「民俗文化展示室」入口です。

←入口右手に、いろいろな養蚕用具が展示されています。

←右側:炭火アイロン{受け皿(土台の船の形の部分)に炭火を入れ、熱してアイロンとして使う。}

・左側:鏝(こて){火鉢などの火で熱し、これを布に当て、しわを伸ばす道具(小型アイロン)。}

←いろいろな生活民具が展示されています。

←農機具(1)。

・左端:クルリボー{殻竿(からさお)・連枷}(豆類、粟などの脱穀や麦打ちに用いる農具。竿の先に短い竿を括ることによって、自由に回転できるように付け、これを回して打つもの。)

・左から2番目:麦の土入機(作物の生育中にこれを使用して土を根の脇に振るいこみ、霜害や徒長をおさえる。)

・左から3番目:手押し除草機(先端に付いた鉄板がソリの役割をする。後方に付いた二連の歯が回って田の土を掻き混ぜ、草を土の中に混ぜ込む。昭和10年代から使われる。)

・右端:代掻(しろかき)き機{田の中を転(ころ)がし、刈敷を土の中に押し込む道具。}

←農機具(2)

・左端:千歯(千刃){木製の台木に鉄・竹・木の穂(歯)を櫛状に並べて固定し、歯と歯のすき間に稲や麦を差し込んで扱(しご)く脱穀用具。}

・左から2番目:万石{篩(ふるい)の一種で、傾斜した篩の上から米を流して玄米をふるい落として籾(もみ)と選別する用具。}

・左から3番目・4番目:切乾機(きりほしき)(大根、さつまいもなどを薄く切る用具)

廊下にも展示品があります。

←製縄機(縄を編む機械。足踏み方式。)